十六羅漢

十六羅漢建立の時代背景

凶作・飢饉のこと
霖雨・早冷・霜害・大風雨―この言葉は南部盛岡藩の災異年表に列記される悲劇的常用語である。
南部藩では江戸時代の約二百五十年の間になんと七十六回もの凶作が発生している。実に三〜四年に一回の発生である。その中で元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は最もひどく、南部藩四大飢饉と称されている。諸物価は高騰し、深刻な社会不安をもたらし、農村は疲弊荒廃して沢山の餓死者を出した。藩の対策も焼け石に水であり、或いは百姓一揆を誘発し、藩の財政に、また社会的に非常な影響を与えた。飢饉の主な原因は、気候不順による農作物の病虫害の発生と、作物の不熟という自然的悪条件に起因して、更に不摂生による疾病(伝染病)が発生したためで、その対策も当時の藩政による社会経済の状態では救済は全く手のほどこしようがなかった。
飢饉のため農民は山菜を食べ、蕨の根を掘り、松の皮で餅をつくって食べ、犬猫はおろか牛馬を殺して食い、父は他領へ逃れ、母は子を殺して乞食となり、はては全く食い尽くして人肉までも求める餓鬼道に落ちた農民もあったと伝えられている。また随所に強盗放火事件が起こるなど、飢饉の年は人々を生きることに狂奔させ悲惨なものであった。そのときの状況は高山彦九郎の「北行日記」に詳しい。
盛岡城下とその周辺には、飢饉餓死者の供養塔が沢山ある。村を捨て、糧を求め、経済的に安定する都市部に手間取り職を求め、城下筋に飢人の列がゾロゾロ押し寄せたのであった。城下の庶民層も同様に生活は楽ではなかった。しかし餓死者の大多数は農民であった。
城下の社寺の救恤、施粥施行が行なわれた。城下寺院の享保期の一字一石供養塔、報恩寺五百羅漢の存在は決して飢饉犠牲者の供養施行に無縁ではない。宗龍寺十六羅漢五智如来大石像の建立は飢饉供養であることは、その銘文によって明らかである。
なお、餓死供養碑は飢饉年のあと、七年、十三回忌・二十七回忌・三十三回忌などに供養のため建立される事例がある。
主な凶作飢饉損毛高十万石以上について列記すると、

  • 元禄八年(一六九五)早冷と大暴風雨によって全収穫十四万俵(三斗七升入)のうち、約七割の減収を生じ加えて前年からの大不作のため、米価は高騰して飢餓人が城下にあふれ、年末頃には餓死者を埋葬する人もなく、犬鳥の餌食となって惨状は目を覆うばかりであった。城下では長町・梨木町・東顕寺前にそれぞれ小屋を建て飢民の救済に当たったが行き届かず、多くの餓死者を出した。この飢饉のため翌年は江戸参勤は免除された。(元禄九・十二〜十五年も大凶作であった)
  • 宝暦五年(一七五五)気候が不順で七月降霜。米作損毛高は二十四万八千石中、十九万九千石になった。十二月に至って餓死者が多く、翌六年正月二日、円光寺・永祥院に助け小屋を建てたが毎日三十〜五十人の餓死者を出し四月までに永祥院四千五百人、円光寺八百人に達した。領内の餓死者四万九千五百九十四人、空家は七千四十三軒にのぼった。(七年も大凶作続く)
  • 天明三年(一七八三)この年の収穫は領内(元年〜八年まで毎年凶作)で米作損毛高十八万九千二百石余の減収といわれる。天明年中最大の飢饉であった。八月中に大降霜雪に見舞われたのであった。東顕寺・報恩寺に助け小屋を建てたが、集まる者は数知れずあった。また悪食のため疫病が流行し多くの死者を出した。餓死者四万八百五十人、病死者二万三千五百四十五人、空家一万五百四十五軒、他領逃亡者三千三百三十人。

このように、宝暦元年(一七五一)以後、慶応四年(一八六八)に至る約百二十年たらずの間において、凶作・飢饉の年が実に四十年以上であって、これとても不作の年も数あって、豊作の年が数えるだけでしかなかったのである。


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